◆明智光秀ゆかりの福知山城を訪ねて(京都府) [史跡・旧跡]
兵庫県朝来市の竹田城跡から京都府福知山市の『福知山城』(2001年復元)へ車を走らせました。
今回は会写連メンバーでもある写友Nawate氏の車に同乗させていただいています。
福知山城は、天正三(1575)年織田信長に丹波平定を命じられた明智光秀が、天正七(1579)年六月に横山城の塩見大膳信房、八上城の波多野氏を降して丹波一国を平定し、横山城の地を新たに福知山と命名し改修したものです。
築城に当たっては付近の寺社などから墓石や五輪塔等を多数供出させて石垣を築いた転用石が有名です。
『花筏(いかだ)』(by NikonD700)
弘前城の花筏と比ぶべくもないスケールですが、珍しいのでシャッターを切っています。
◆雲海に浮かぶ天空の城を期待して(朝来市竹田城跡) [史跡・旧跡]
◆大判カメラで収めたい南禅寺境内『水路閣』を訪ねて [史跡・旧跡]
南禅寺や『琵琶湖疏水』、インクラインは今までも何度か訪れていますが『水路閣』は今まで訪れたことがありませんでした。
TVドラマなどでもよく出てくるので非常に興味はあったんですが・・・。
今回、北野天満宮訪問の帰路、南禅寺に立ち寄りこの水路閣をカメラに納めようと訪れたのです。
本当は大判カメラでそのレンガ建築の歴史ある風景を精緻にしっかり収めたいと思っていますので、今回はその下見ということでしょうか。
南禅寺三門をくぐって法堂に詣でた後、向かって右側に少し足を延ばすと尋ねるレンガ造りの水路閣が目に入ってきました。(『境内MAP』)
琵琶湖疎水は明治期に京都の産業振興を計る為に建設された水路で、琵琶湖と加茂川を結ぶ疎水は明治18年(1985年)着工、市の年間予算の2倍以上の費用をかけ、明治23年に一期工事が竣工したといいます。
水路閣は琵琶湖疎水の支線の一部となるレンガ造りの水路橋で、南禅寺の境内を通過しています。
大判カメラで押さえるとなると基本的には人影を入れたくありませんので、観光シーズンなどは早朝に出かける必要がありますね・・・。
◆JNP滋賀支部新年会の日に大津市・膳所城址公園を訪れて [史跡・旧跡]
1月8日土曜日、日本風景写真協会滋賀支部例会がある『大津市生涯学習センター』近くにある『膳所城址公園』を訪れました。
実は近場にありながら公園内に足を踏む入れたのは今回が初めてなんですが、例会が始まる前の約30分の時間調整に訪れてみました。
膳所城は、徳川家康が関ヶ原の合戦の後、築城の名手といわれた藤堂高虎に最初に造らせた城でした。
城構えは、湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓(やぐら)が美しく湖面に浮かぶ姿は、実に素晴らしかったといいます。
この美観は、「瀬田(せた)の唐橋(からはし)唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われています。
もちろん今は当時の面影はありませんが、この公園は桜の季節が最も華やかで城址公園にふさわしいのだろうと思われます。
画像は全て"NikonCOOLPIX P7000"による撮影です。
◆正月の緩み解消のためのウォーキングと下之郷遺跡 [史跡・旧跡]
正月三ヶ日の飲んで食って寝ての生活の緩み解消のため、今日は今年初めてのウォーキングとなりました。
行先は守山市内のK.カメラ店、ブックショップ、百均ショップでしたが、その途上にある『下之郷遺跡』を訪れてみました。
下之郷遺跡は、今から2,200年前の弥生時代中期の環濠(かんごう)集落(周りに濠を巡らせた集落)で、全国的にみても重要な遺跡です。
平成14年3月19日に国の史跡指定を受けています。
K.カメラ店では、1月9日(土)にあるJNP日本風景写真協会滋賀支部例会に持参する作品のプリント受け取りと、13日からの合同展案内状を印刷する用紙を購入しました。
画像は、ウォーキング途上の風景と下之郷遺跡の写真ですが、今回のウォーキング歩数は15,400歩 でした。
『市街から遠望する冠雪の比良連峰』(by NikonCOOLPIX P7000)
『下之郷遺跡にある地元小の学習田』(by NikonCOOLPIX P7000)
『下之郷遺跡環濠保存施設』(by NikonCOOLPIX P7000)
『ショーウィンドウの遺跡発掘資料』(by NikonCOOLPIX P7000)
『発掘された水田復元地』(by NikonCOOLPIX P7000)
発掘、復元現場は真新しく当時の面影はないと思いますが、発掘資料は資料館(本日休館)の中に展示中とのことですので、次回は是非中に入って見学します。
◆豊中の自動車ディーラー訪問の帰路は池田街道を走る [史跡・旧跡]
車両の2年目の定期点検に豊中市のディーラーに出かけました。
冬用タイヤ4本も積んでの移動のため、カメラ機材はNikonCOOLPIX P7000を携行したのみですが、冬用タイヤを装着して冬景色撮影の準備も整いました。
店内では昔馴染みの店長と話したり展示車両を見たりして時間を消化しましたが、旧知の友(と言っても20歳くらい違う)との語らいが時間を忘れさせてくれました。
『展示車両;三菱アウトランダー』(by NikonCOOLPIX P7000)
栗東市までの帰路は高速道路をただ走るだけでは面白くないので、京都亀岡市に抜ける池田街道を経由することにしましたが、残念ながら紅葉は既に遅く、傍を流れる渓流の色も既に枯れ木の冬景色でした。
ただ、以前は気が付かなかったのですが、街道途中のゴルフ場『高槻カントリー倶楽部』のエントランスに、高槻城の復元やぐらと『高山右近』像が見えたのでそれを撮影しました。
『高槻カントリー倶楽部』(by NikonCOOLPIX P7000)
『高槻城復元やぐら』(高槻カントリー倶楽部;by NikonCOOLPIX P7000)
『キリシタン大名高山右近像』(高槻カントリー倶楽部;by NikonCOOLPIX P7000)
なお本来の『高槻城』の所在地は当地ではなく、現在は見られませんが高槻市内、槻の木高校のある位置が本丸のあったところとされています。
今日の帰路は、図らずも歴史の一端を訪ねる行程になったようです。
◆乗鞍の帰路・草深き野麦峠を訪れて [史跡・旧跡]
乗鞍紅葉フォトツアーの帰路に写友と訪れた『野麦峠』は、草深い山間の街道でした。
『野麦街道』の看板が立っていたので街道と表現しましたが、山中の狭い道は街道というには程遠いものでした。
もちろん私たちはその野麦街道を走破したわけではなく、自動車の走れる林道越えでした。
野麦峠と言うと、私などは映画でしか知らなかったので、その映画『あゝ野麦峠』の場面を思い起こしながらその峠でひと時を過ごしました。
『石の敷かれた野麦街道』(by NikonD700)
この石の街道を登ったところが峠だそうですが、時間の関係で登ることはできませんでした。
『映画の一場面を再現した石像(あゝ飛騨が見える)』(by NikonD700)
兄に背負われて野麦峠を越える妹“みね”の姿を再現しています。
“みね”は、この峠で懐かしい飛騨を見た後亡くなったそうで、この地近くにそのお墓もあります。
『峠に生える若いモミジの紅葉』(by NikonD700)
峠のこの若いモミジも、その昔の“みね”の姿が想われるようでした。
資料館『野麦峠の館』と『お助け小屋』案内版(by nikonD700)
帰宅後、古いVTR『あゝ野麦峠』とその続編シリーズをラックからとり出していましたが、まだ見るに至っていません・・・。
◆大判写真『光彩四季展』と奈良平城京復元地を見学 [史跡・旧跡]
先の記事で紹介した奈良市で開催中の大判写真倶楽部『第8回光彩四季展』を見学し、その後近くにある『平城京・大極殿(復元)』を訪れました。
当日は、午後8時30から伊賀市の写友とともに諏訪湖の花火を撮影に出発予定だったので、その前にぜひ大判写真『光彩四季展』を見ておきたたく、まずは奈良市イトーヨーカ堂5Fにある展覧会場を訪れました。
会場には、会員35名の方の大判写真作品47点が展示されていてさすがに迫力満点でした。
特に作品サイズは、全倍37点、全々倍9点、さらに最大の大全倍1点と日ごろ見ることの少ない大スケールの作品が会場一杯に展示されていました。
その後時間があったので、平城京跡を訪れ間近に復元された大極殿を見学しました。
その画像を紹介しておきますが『現物を見るにしかず』、未だの方は是非訪れてみてください。
『大棟両端に設置された金色の鴟尾(しび)』(by NikoD700)
『朱塗りの桁構造』(by NikoD700)
当日は炎天下で汗をかきながらの見学でしたが、非常に有意義な、訪れがいのある訪問でした。
◆伊賀上野への道中で旧東海道を走る [史跡・旧跡]
伊賀市上野のKカメラ店に発注済みの作品プリント(全紙2枚)を受け取るため、国道1号線の混雑を避けて、栗東から旧東海道を経由して車を走らせた。
旧東海道を選んだ目的の一つに、栗東市内の史跡『和中散本舗』を訪れることがありましたが、あいにくお盆休みということで見学は出来ず、街道から見る風景を撮影してきました。
【MAP】
和中散本舗とは、江戸時代に旧東海道の六地蔵で道中薬「和中散」を売っていた大角弥右衛門(おおすみやえもん)の店鋪兼住宅跡で、かつて徳川家康が腹痛をおこした際、この薬を服用してすぐに治ったことから、一躍その名を知られるようになり、現在も栗東市の観光地として『栗東八景』の一つになっています。
現在の建物は、寛永年間(1624~44)の建物をそのまま残したもので、大きな白壁、贅を尽くした玄関や欄間などが目を引き、中の仕事場には明治中頃まで使われていたという製薬機械の石臼なども残されていますが、今日はそれを見ることができませんでした。
和中散本舗は薬の販売業のほか、東海道草津宿と石部宿の「間の宿」として公家や大名などの休憩所も務め、小堀遠州(こぼりえんしゅう)作と伝わる庭や、曽我蕭白(そがしょうはく)の襖絵などの貴重な文化財も残されています。
『街道から望む和中散本舗のたたずまい』(by NikonD700)
◆季節の風景写真;足跡2006年夏-Ⅲ(妻籠宿) [史跡・旧跡]
2006年夏、信州家族ツアーで訪れた中山道は『妻籠宿』風景を紹介しています。
江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも呼ばれていました。
中山道69次のうち江戸から数えて42番目となる妻籠宿は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として古くから賑わいをみせていました。
『妻籠宿街並み』(枡形;by FinePix S3 Pro)
宿場は、幕府により防塞施設としても造られており、敵の侵入を阻むために道を直角に折り曲げて、いわゆる「枡形」を設けていました。
『常夜灯』(枡形の案内も;by FinePix S3 Pro)
『涼を求めて』(朝顔の御簾;by FinePix S3 Pro)
『妻籠宿本陣-Ⅰ』(南木曽町博物館;by FinePix S3 Pro)
『妻籠宿本陣-Ⅱ』(南木曽町博物館;by FinePix S3 Pro)
明治天皇ご小休止跡の石碑が立っている
今年の夏は遠出の機会もなく終りそうですが、名所旧跡を訪ね、高地の夏を家族とともに楽しんだ4年前の足跡を記事に書いていると、なんだか古い話ではなく今年のことのように思えるから不思議ですね。