❖初めて登った秀吉出世城・長浜城天守閣(長浜城歴史博物館) [史跡・旧跡]
長浜城は、羽柴(豊臣)秀吉最初のお城として有名だが、現在の城は昭和58年(1983年)に再興され、現在は長浜城歴史博物館として一般公開されている。
長浜城のある豊公園は、湖北で育った私が特に桜の頃には何度か訪れているなじみの地であるが、当時はお城はなく、この再興の天守閣にも登ったことない初の経験になった。
最上階の廻廊は、近江の地を四方に展望できる絶景ポイントでもある。
◆司馬遼太郎「坂の上の雲」の一つの舞台「松山城」を訪ねて [史跡・旧跡]
◆カラオケ友に請われて訪れた竹田城跡を望む立雲峡 [史跡・旧跡]
近所のカラオケハウスで知り合ったカラオケ友A.氏に『雲海に浮かぶ天空の城・竹田城跡』を撮影したいと頼まれて、早くから日程を決めて訪問しました。
ところがせっかくの企画にも関わらず天気予報が雨とあって、急遽訪問順序を変えて、1日早い日中の竹田城跡訪問となりました。
訪問時、晴天であったため立雲峡の展望台を全てロケハンする結果となり、それなりに意味ある訪問となりましたが、主目的だった雲海はその日の早朝がベストだったそうで、当初予定した日は天気予報通り朝から雨でした。
『晴天に浮かぶ竹田城』(by NikonD800)
望遠レンズで遥かに望む城跡の石垣の上は人盛り!以前訪れた時とはすごい環境の変化と見えました!
『そびえ立つ枯れ木』(by NikonD800)
幹に這いつくばって仰ぐ、お馴染みの撮影スタイルで、、、。
残念ながら雲海に浮かぶ天空の城は望めませんでしたが、友A.氏は初めての経験だったのでそれなりに満足してくれ、さらに次回の訪問を約束しました。
◆歴史の重みを感じる木ノ本の産業、老舗を訪ねて(北国街道) [史跡・旧跡]
6月2日、長浜市木ノ本の「地元ガイドとまち歩き」に参加した日、ガイドさんに予定時間をオーバーしてまで案内していただいた老舗の地元産業は、その歴史の重みが強く感じられました。
特に日曜日ということもあって、作業をやっておられないにも関わらず、それぞれ奥様が案内をして下さって、ガイドさんを含めてその案内ぶりと表情は、仕事を持った女性の何とも言えない自信、力強さにあふれていました!
1)ダイコウ醤油;嘉永5年創業ですから161年の歴史があります。
2)丸二テグス(株);大正7年(1918年)創業
素人の私には、木ノ本の地場産業でもある三味線の糸づくりと同じように感じましたが、以前は蚕の繭から紡いだ糸も、今はナイロン製だそうです。
奥さんの話によるとこの広い工場は「大奥」と呼んでいる女性ばかりの職場だそうで、機械のメンテも簡単なものは自分たちでやるとのこと。
ここで製造される殆どがカツオ釣りなど産業用の釣り糸で、全国の漁場に出荷されているようです。
3)犬桜の古木;バラ科サクラ属の落葉高木/轡(くつわ)の森
丸二テグス近くのこの「轡(くつわ)の森のイヌザクラ」の古木(樹齢推定430年)は、一説では羽柴秀吉が木之本に駆けつけた時に乗っていた馬が死んだのをあわれみ、この地に埋葬して愛用の鞭をさしておいたところ、やがて芽を出して今日の大木に成長したと伝わる。
花はふつうの桜とは違って珍しく、毎年5月末頃に咲くそうなので一度は見てみたいと思いました。
◆歴史豊かな木ノ本で地元ガイドとまち歩き(北国街道) [史跡・旧跡]
6月2日(日)、思い立って故郷高月(現、長浜市高月町)のその向こう木ノ本で企画されていた「地元ガイドとまち歩き」に参加しました。
琵琶湖湖北に位置する長浜市木ノ本(旧、伊香郡木ノ本町)は、羽柴秀吉と柴田勝家が信長死後の主導権争いをした賎ケ岳の合戦、七本槍など歴史豊かな地ですが、私が育った高月町の隣町であっても、ゆっくり訪ねる機会は少なかったようです。
今回、通勤途上のJRの駅で目に付いたパンフレットを見て、思い立ってJR栗東駅から木ノ本駅を目指しました。
車で行くほうが自由度がありそうだと思いましたが、たまには電車もいいかと思って、午前9時過ぎの電車に乗りました。
以下は、地元のガイド(女性)に案内していただいた北国街道沿いの街並みの一部を紹介していますが、当初案内予定1時間、1.1Kmのところ、結局約4Km、2時間のコース、地元産業の工場見学までお付き合いいただきました。
懇切丁寧なガイドさんは、まさに地元を愛し観光客を大事にされているとつくづく思い、私も爽快な気持ちになりましたねえ!
『馬宿平四朗;山内一豊名馬ゆかりの家』(by NikonD800/以下同じ)
『山路酒造;酒造り480年あまりの老舗』(懐かしい桑酒のお店)
『本陣薬局;店先には古い薬の看板が、玄関の柱には馬を繋ぐための金具が・・・)
『木之本地蔵院;日本三大地蔵の一つ』
幼いころ、母からもらったわずかなお小遣いを持って毎年8月に訪れた地蔵縁日を思い出していました、、、。
当時、片道一里の道を歩いてきた懐かしのお地蔵さまでした。
そう大きくない落ち着いた雰囲気の庭でしたが、この庭の借景ともいえる「田上山(たがみやま)」がその向こうに望めました。
実は、その田上山の麓にある「穴師(あなし)」というところに、まだ幼かった私と三つ違いの姉が祖父母と住んだことがあります。
でも二、三歳のころで記憶、思い出はほとんど残ってはいませんが、、、。
◆義仲寺に眠る木曽義仲と芭蕉翁(大津市) [史跡・旧跡]
大津市にある義仲寺(ぎちゅうじ)は何度も訪れたいと思いながら今まで一度も行けていませんでした。
いわゆる朝日将軍、木曽義仲が眠るお寺さんでありながら「よしなかでら」とは呼ばず「ぎちゅうじ」という、、、!?
それはともかく、同寺には芭蕉翁も義仲のお墓の隣に眠っているんですが、それぞれに手を合わせお参りしていると何とも言えない厳粛な気持ちになりました。
俗化、観光地化した雰囲気が全くなく歴史を感じる墓標とその周辺の雰囲気は、こじんまりとして静かな境内の佇まいが醸し出しているのでしょうか!?。
私が好きな源氏の武将の一人木曽義仲と、5年間単身赴任していた伊賀市出身の芭蕉のお墓の前で、私の想いもひとしおでした。
因みに私が源氏の武将で好きなのは、他には判官びいきを地で行くように源義経と足利尊氏に敗れた新田義貞なんですよねえ、、、。
『芭蕉句碑』(by NikonD800)
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」芭蕉
看板の説明がなければチョッと読めないほどですが、それだけに歴史の重みを感じますねえ!
木曽義仲;(不詳)~寿永3年(1184年)
・近江国粟津、現在の大津市で鎌倉軍と戦い、討ち死に(粟津の戦い)
松尾芭蕉;寛永21年(1644年) ~ 元禄7年(1694年)
・大阪御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷で死去
・遺骸は遺言に従って弟子の手でこの地まで運ばれ義仲の墓の隣に埋葬された
◆郵便局-中山道(史跡)-メガネショップを歩いて一万歩 [史跡・旧跡]
オークション出品していた遊休のスマフォ用バッテリーを落札者に発送し、メガネのフレームが耳に痛くて調整に行こうと家を出たが、折角だからウォーキングを兼ねて行こうと思い立ち、結果トータル5Km強、一万歩の歩行となりました。
今回は中山道を経由してのウォーキングでしたが、家から100mも歩けば中山道に出られ、その街道沿いには多くの史跡もあるのに、いかに日頃歩いていないかがわかるほど途上の史跡も初めて見るところがありました。
今回は、自宅からほんの1.5Kmぐらいの所にある『樹下神社』(http://www.geocities.jp/imajuku_town/meisyokyuuseki.html)
を初めて訪れました。
以前も近場の中山道を歩きましたが、たまに近場の史跡旧跡を訪ねるのも良いものですね、、、。
◆広島・山口・島根の駆け足ツアー1600Km(津和野) [史跡・旧跡]
津和野は本当に駆け足で通り過ぎることになり、車を駐車場に止めた後そこの食堂で遅めの昼食をしました。
店内には商品の焼き物が展示されていましたが、そこのご主人は滋賀の信楽で最初に修業されたそうです。
以下、短時間でしたが津和野の街並みと紅葉風景など訪問記念写真を紹介します。
『武家屋敷の白壁と水路』(by NikonD800)
有名な菖蒲の刈り取り跡が目につきました。現実に咲いている風景が見たいです。
『鷺舞の像』(byNikonD800)
鷺舞は弥栄神社の古典芸能神事で、京都から山口に伝わったものがさらに津和野へと伝わったもので、唯一400年にわたり伝統が受け継がれ、正しく今に残る鷺舞だと言われています。
1994年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
『SLの走る鉄橋』(by NikonD800)
訪問時、すでにSLの運行期間は終わっていました。
太鼓谷稲成(稲荷の表示ではない)は、安永2年(1773年)津和野藩7代藩主亀井矩貞が、藩の領民安寧のために京都の伏見稲荷大社から勧請を受け、三本松城(津和野城)の鬼門に当たる太皷谷の峰に社を創建したのに始まり、伏見稲荷大社・笠間稲荷神社・竹駒・祐徳稲荷神社・徳稲稲荷神社と並んで日本五大稲荷といわれているそうです。
◆広島・山口・島根の駆け足ツアー1600Km(松下村塾・松陰神社) [史跡・旧跡]
萩市のもう一つの欠くことのできない訪問地はやはり松下村塾と松陰神社でした。
萩も私は初めての訪問であり、じっくり見て回りたい気持ちを持ちながら、やはりマイペースを押さえて急ぎ旅、駆け足で通り過ぎてしまいました。
それでも松陰神社宝物殿『至誠館』に入館し、松陰の遺品、遺墨などを見、そこで松陰の短くも深い生涯を垣間見て、館内の空気感まで何かしら心に響くものを感じていました。
昨今の政界における混迷も、軽々と思われる維新の名の氾濫もちょっと考えさせられましたねえ!
松陰の国家感などからみて今がどのように映っているのか聞いてみたいですね・・・。
◆広島・山口・島根の駆け足ツアー1600Km(萩城跡) [史跡・旧跡]
22日(木)、朝8時ごろ長門市仙崎漁港を発って萩市に向かいました。
この日は萩を訪れた後津和野に寄り、広島大竹市の従妹邸にたどり着く予定なのでちょっと忙しく、金子みすゞ館には寄れず家内は途中のドライブインの金子みすゞコーナーで書籍を買っていました。
萩市では最初に萩城跡を訪ねましたが、この城は毛利輝元の築城で、標高143mの指月山の山麓に本丸が築かれたことから指月城とも呼ばれました。
関ヶ原合戦の敗戦で、西軍の総大将であった毛利輝元は、長門・周防2国に移封され、慶長九年(1604年)日本海に面した長門国の萩に築城しました。
『萩城跡の石垣と堀』()by NikonD800
最も左手の石垣が天守台跡です。
『築城した毛利輝元像』(by NikonD800)
毛利輝元の文字の上に毛利家の家紋がありますが、ちなみに我が家の家紋は、この毛利家の家紋の逆バージョンなんです。
すなわち「星(丸)三つの上に一文字」が毛利家の家紋ですが、我が家は「星三つの下に一文字」なんで、それは三ツ星一文字、または渡辺星などとも言います。
城内を散策しながら、城内の大きな椎の木の下に椎の実が沢山落ちていて、従妹の主人と一緒に童心にかえって食しました・・・。