◆遠き昔のの郷愁を感じる雪の彦根城(国宝) [史跡・旧跡]
湖北に向かう途上ではやはり雪の『彦根城(国宝)』をただ通過するわけにいかずに立ち寄りました。
昨年、桜満開の頃に訪れて以来の訪問ですが、考えてみれば雪の彦根城ってひょっとしたら学生時代から訪れていないような気がして、遠き昔の郷愁を感じます。
みぞれ混じりの雨の中、雪の残った石段を登って天守を目指しましたが、その後牡丹雪に変り、レンズに雪が付着するなどチョッと撮影に苦労しました。
『天秤櫓(重要文化財)と廊下橋』(by NikonD700)
左上方は廊下橋で非常時は落とし橋として崩せるようになっているようです。
時代劇では良くこの橋を渡る風景が出てきますが、彦根城以外の設定でも出てきます。
『太鼓門櫓(重要文化財)』(by NikonD700)
本丸への最後の関門となる櫓で、登城合図の太鼓が設置されていたと考えられる。
最も手前にある雪をかぶった小さな木は、友好都市水戸市から贈られたしだれ桜です。
彦根市と水戸市は井伊大老が殺害された『桜田門外の変』の因縁ある関係ですが、現在は友好都市となっています。
『破風』と呼ばれるいくつもの屋根様式を巧みに組み合わせた美しい曲線の調和が特徴的な天守閣です。
天守に牡丹雪が降る様をどう撮るか考え、ISO感度を800にしてシャッタースピードを上げて撮影しています。
その結果降る雪が静止したように点で写っていますが、スローシャッターで流した方が動感があって良かったのでしょうか?
彦根城は昭和27年に国宝に指定され、姫路城、松本城、犬山城とともに国宝四城の一つとなっています。
◆近江・秋の観光ツアー;その4(琵琶湖周航の歌資料館) [史跡・旧跡]
広島の地元で友人たちとコーラスや自分たちで企画したカラオケ喫茶などのイヴェントを楽しんでいるという従妹の話題の中に出てきたのが『琵琶湖周航の歌』だったので、メタセコイヤ並木の帰路、高島市今津にある『琵琶湖周航の歌資料館』を案内しました。
ところでこの歌は、第三高等学校(現在の京都大学)に入学した小口太郎が、1917年(大正6年)琵琶湖一周の漕艇中にこの歌詞を思いついたとされています。
その後、吉田千秋が作曲した『ひつじ草』のメロディに当てて歌われたのが定着し、三高の寮歌、学生歌として広まっていき、さらに加藤登紀子がカバーし、ポピュラー音楽として一般にも知られるようになりました。
なお同資料館では琵琶湖周航の歌としばしば混同される『琵琶湖哀歌』についての展示もありました。
同曲は作詞を奥野椰子夫、作曲を菊池博が行い、東海林太郎と小笠原美都子が最初に歌いました。
琵琶湖でボート練習中に突風のため転覆し水死(琵琶湖遭難事故)した第四高等学校(現・金沢大学)漕艇部の部員11人を悼んで作られたとされています。
歌詞には琵琶湖八景が詠み込まれており、またメロディの半分ほどは琵琶湖周航の歌の借用でもあります。
東海林太郎と小笠原美都子のデュエットでレコードが発売されたのは、まだ遭難者の捜索が続いていた最中であったそうです。
私がこの資料館を最初に訪れたのは数年前、湖西の写真家で故人となられた『下澤忠夫』氏の作品展のために訪れたのが最初でしたが、琵琶湖周航の歌の生い立ちを詳しく知るきっかけでした。
因みに、当時お元気なころの下澤氏に風景写真の基本を解説いただいた記憶が今も残っていますが、二度目に当館を訪れた時は同氏の遺作展が開催されていました。。
◆近江・秋の観光ツアー;その1(安土城跡と信長の館) [史跡・旧跡]
11月21日(月)夜から、24(水)まで、遠く広島から従妹夫妻が訪れてきましたので、県内に住む姉、兄を誘い、家内を含めた親族サービスというか家族サービスとして近江・秋の観光ツアーを企画、実行しました。
初日のスタートは、当初は湖南三山を訪れる予定でしたが、急きょ予定を変更して『安土城跡』と安土城天守の上層部復元モデル『信長の館』を見学することにしました。
『秋色・天主跡からの眺望』(安土城跡;by NikonD700)
築城当時はこの安土山の麓まで琵琶湖であったと伝えられていて、それを利用しての水運もこの地を選んだ信長の狙いの一つだったといいます。
『近江平野を見下ろすメンバー』(by NikonD700)
私は何度も見慣れている風景ですが、メンバーはここまで登った達成感を味わっています。
また腰を痛めている兄には結構きつかったと思いますが、どうも天主跡まで登るのは初めてだったようで最後まで付き合いました。
『浅井長政・お市と三姉妹』(別れの場?) 『安土城築城の大石運搬のジオラマ』
信長の館室内の撮影はフラッシュ撮影を禁止していますが撮影可能でした。
しかしカメラを持参しませんでしたので"XPERIA”での撮影となりましたが、結構絵になっているでしょう。
◆安土城跡訪問でハプニング発生 [史跡・旧跡]
『安土城跡』は何度も訪れていますが、チョッと間をおいて行くと少しずつ環境が変わって行き、今回の訪れでは駐車場が有料(¥500-)になっていました。
もちろん入山料も¥500-が必要です。
さて今回の訪れの主目的は、HASSELBLADのフィルムマガジンを追加購入したのでその試し撮りが目的で、予備のマガジンにはモノクロフィルムを装填し、それの被写体に安土城跡が適当と判断したからでした。
ところが、ハプニング発生!
レンズの装着ができず、何度もトライしましたが全く言うことを聞いてくれません。
・・・・・・【ことのいきさつ、レンズ脱着に至った経緯】・・・・・・
①ここへ来る前のコスモス畠で、これも最近手に入れた×2のテレコンを装着して撮影
②現地に来て、テレコンを外そうとレンズと一緒にボディから取り外す(もちろんハッセルお約束のフィルムチャージした状態で・・・)
③その後テレコンからレンズを分離する(ここまでは何の問題も無くスムーズに作業・・・)
④いざレンズをボディに装着しようとしたら嵌めこんだ後全く回転してくれない
◆チャージした状態で外したのだから、当然レンズはチャージ状態のままと信じて何度かトライしましたが全く駄目でした。
結局ハッセルでの撮影をあきらめ、デジイチで天守跡、琵琶湖の眺望、『三重塔』、『二王門(楼門)』などを撮影しながら帰路につきました。
『大手道の石段』(by NikonD700)
もっと下方からスケール感のある撮影がしたかったが、石段補修の工事用ポールがあったので避けて撮影しました。
『仏足跡』(by NikonD700)
お釈迦様の足跡を表現したものですが、安土城の石段の随所に見られる石仏同様に石段の石材として使われていたそうです。
『湖国&伊吹遠望』(by NikonD700)
ここから右遠方に伊吹山が、さtらに左前方に琵琶湖も遠望できます。
またこの眺望の先に私が育った故郷(長浜市高月)があります。
『二王門(楼門)を振り返る』(重文;by NikonD700)
今回初めて巡った三重塔と二王門(楼門)は、どちらも重要文化財に指定されていますが、メインの観光ルート大手道とは外れていますので比較的観光客は少ないようでした。
なお今回の主目的はハッセル撮影だったので少し気落ちもしていて、信長公本廟などをゆっくり巡ることはありませんでした。
【後刻談】
ハッセルのレンズはチャージが解除されていました!
テレコンとセットで外すと勝手にレンズはディスチャージされるのでしょうか?
レンズ単体でのチャージをすることで問題解決しましたが、レンズのチャージの意味も今一つ分かっていなかったようです・・・。
自宅最寄りの守山市K.カメラ店に持ち込んで教えてもらいました。
◆彼岸の最中・東大谷祖廟詣でと東山界隈散策 [史跡・旧跡]
八坂神社の狛犬を撮影後、さらに八坂・東山界隈を散策しました。
と言っても欠かすことのできない訪問地は、親鸞上人が眠る『東大谷祖廟』です。
その昔、母健在の頃に訪れたことがありますが、浄土真宗の宗祖親鸞上人の廟なんですね。
丁度彼岸と言うこともあって多くの参拝客であふれていましたが、やはり父母を思い出していました。
『東山の料亭風情』(大谷祖廟前;by NikonD700)
ちょっと京都風情ですね。
その後、また八坂神社を抜けて『円山公園』の駐車場へと歩きましたが、円山公園では『坂本竜馬』と中岡慎太郎銅像近くの店で昼食(おろしそば)を食しました。
『坂本竜馬と中岡慎太郎像』(円山公園;by NikonD700)
本殿前は観光客、参拝客でにぎわっていましたが、少し裏に回ると閑散とした風景でした。
でも、この道路沿いにあるいくつかの社殿を一つずつ参拝している信仰篤い人など、心安らぐ風景にもお目にかかりました。
この先には円山公園があります。
◆関ヶ原間近の再建された大垣城を訪ねて [史跡・旧跡]
大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられています。
関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりましたが、その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで続きました。
幕末、第11代藩主・戸田氏共は第二次長州征伐に参戦し、鳥羽・伏見の戦いにおいても大垣軍は新政府軍と戦い佐幕派となっています。
その後、家臣の小原鉄心が氏共を説得して尊王派に藩論を統一し、 『戊辰戦争』では新政府軍に与して東山道軍の先鋒を務めています。
明治の版籍奉還で氏共は大垣藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月、廃藩置県により大垣藩は廃藩となり大垣県を経て岐阜県に編入されました。
昭和11年(1936)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)7月戦災で焼失しました。
しかし昭和34年(1959)4月、4層4階の鉄筋コンクリートの天守閣を再建し、名実ともに城下町大垣のシンボルとなっています。
『杭瀬川の戦い(関ヶ原の戦い前哨戦)』(城内展示ジオラマ;by NikonD700)
お城は新しく、天守内も元の木造の古い雰囲気はありませんが、ビデオ放映や体験用の武具(火縄銃、槍、弓など)が用意されていて、歴史を知り、体験できる空間がうまく演出されていました。
◆能登半島・平家の名残り『時国家』を訪れて [史跡・旧跡]
翌日の撮影目的もあってこの日のうちに岐阜へ行っておきたいため、能登の最終訪問地は平家の名残りで有名な『時国家』と『上時国家』になりました。
ずいぶん古い話しですが、高校を卒業した時小学校時代からの友人(高校は違いましたが)と訪れて以来の訪問です。
当時、源平時代の名残りにこころ惹かれた強い印象をもったので今回はぜひ訪れたいと思いました。
源平・壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門のうち、「平家にあらずんば人にあらず」と奢った言葉を述べた事で知られる武将『平大納言時忠』の末裔と呼ばれ、約800年の歴史を受け継いだ2つの時国家(下)と上時国家があります。
『平氏の家紋;揚羽蝶』(時国家宝物殿;by NikonD700)
ところで私の書棚のメインを占めているのは、1968年(昭和43年)に買った吉川栄治全集(講談社)ですが、中でも『新平家物語;全6巻』は、今も私のこころのふるさとのように郷愁を覚えながら大切にしています。
◆岩国市・ここでも雨中の『錦帯橋』と『岩国城』へ [史跡・旧跡]
5月28日(土)、この日も台風の影響で朝から雨模様でしたが、昼前に従妹と一緒に岩国市内『錦帯橋』と『岩国城』を訪れました。
錦帯橋は初めての訪れですが、雨の中だと言うのに多くの観光客が足元を気にしながら橋を渡り、その先にある吉香公園内の新緑やバラ園、さらには岩国城などを楽しんでいました。
日本三名橋、日本三大奇橋に数えられている木造のアーチ橋です。
錦帯橋とともに『日本さくら名所100選』の一つに数えられる『吉香(きっこう)公園』を抜けてロープウェイで登った山上に岩国城があります。
再建の天守(鉄筋コンクリート)は博物館となっていて、甲冑や刀剣など時代を想わせる資料が多く展示されていました。
『霧中のからくり時計』 (by NikonD700)
『霧立ち上る』(吉香公園から望む;by NikonD700)
不自由な撮影と言いながらも、連れのスナップ記念写真の合間にに許される限りの風景も撮影しました。
特に山肌を立ち昇る霧の風景がお気に入りで多く撮影しています。
これは雨ならではの情景ですよね。
◆雨中の広島は『広島城』と『原爆ドーム』へ [史跡・旧跡]
◆戦艦大和の歴史を訪ねて呉市『大和ミュージアム』へ [史跡・旧跡]
雨のしまなみ海道に早々と見切りを付けて、ある種の憧れをもっている『戦艦大和』の歴史を訪ね呉市にある『大和ミュージアム』≪呉市海事歴史科学館≫を訪ねました。
呉市に到着したのは17時30分ごろのため、開館19時までの短時間の見学となり、十分な見学は出来ませんでしたが、それなりの昭和史に残した戦艦大和の足跡を見知ることができました。
また、大和に関する私の事前知識は、児島襄著の『戦艦大和』や映画『男たちの大和』が代表的ですが、直接的にその歴史の破片(かけら)を現物で見える期待を大きく持っていました。
本投稿記事では、多くの展示物やVTR放映画像全てを紹介できませんが、その一部をピックアップしてました。
なぜ大和は殆ど無防備のまま出撃しなければならなかったのか?
戦争終焉間近の出撃の意味合いがどこにあったのか?
多くの乗員とその家族のことはどこまで考えられていたのか?
アメリカに戦利品として大和を取られたくなかったとは本当なのか?
さらに想いと疑問が募った今回の『大和』訪問でした。